2017年01月30日

気持ちとは言葉に囚われている

こんばんは。
先日、イベントでこのようなお話を聞いてきました。

世の中にテレパシーというものが流通しない限り
相手に気持ちを伝えるには言葉しかない。
写真とかを見せるにしても言葉でしか気持ちは伝えられない。


けれど、実はそんな中で
相手に気持ちを分かってもらえたという感覚は錯覚でしかないのだと。
分かってもらえたんだと勝手に自分が解釈して満足しているだけなんだと。

そんな話を議論・・・哲学してきました。



分かった という言葉にしたって
実はそれって相手が気持ちを伝えてきている言葉に対して
蓋をするだけの行為になる言葉なのではないか?


確かに何かを言いたいって事は 分かった のかもしれない。
実行に移したいからもういいよ、大丈夫だよの 分かった なのかもしれない。
むしろ、うるさいから黙れって意も込めて 分かった、分かった なのかもしれない。

でも結局、こうしたら喜ばれるんだろうなという聞き手側の想像でしかない
分かった になってるに過ぎないのではないか?と考え始めました。




十人十色なんて言葉もありますが、
なんか究極論、人って絶対に分かりあえない生き物なんじゃないのか?

そもそも論、相手の気持ちを覗きたいか?と聞かれると
そうでもないって思う人もいる中で、分かり合う必要すらないんじゃないか?
・・・そんな風にさえも思えてきてしまいました。


でもそんな錯覚と錯覚が交差した時、勘違いと勘違いが上手く重なった時に
何かが生まれ、創られていくんじゃないかなぁ・・・なんて思いました。
気持ちとは言葉に囚われている



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Posted by 亞璃紗 at 21:00│Comments(0)日々の出来事
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