2017年06月26日
ヒト記事だけ・・・
ブログ休止中ですが、どうしても述べたい事がありますのでヒト記事だけ。
私はゆるキャラのアテンドとは、車イスの人のエスコートのそれと同じだと思っています。
ある程度の補助さえしてさしあげれば、車イスの人にも意思はあって、残りは自らですることが出来る。
・・・そう思っています。
でも現実は、車椅子の人は何も出来ないモノだと思って扱う人も多いと感じる。
逆に車椅子の人も、私は障害者だからという言葉を武器に自らの意思で生きるのを諦め、
身の回りのこと全てを周りにやってもらおうとする人もいるようにも感じる。
これって正しく、ゆるキャラでも言えることであって、
何も出来ないものだろうと決め付けて扱うアテンドにも
キャラクターでいることを諦め、身の回り全てをアテンドにやってもらおうとする演者と同じだと思う。
そのような中で、アテンドの在るべき姿としてどのような行動が好まれるのだろうか。
例えば開き扉1つ例に取っても
車イスの人を後ろから押して、扉に突っ込み開けようとする人がどこにいるだろう?
頑張って扉を通ろうとする車椅子の人をただ見ているだけでフォローもせず
通れた!通れた!とただ喜び、感心するだけの人で良いのだろうか?
・・・先導して、扉を開けてあげるとか、引っ掛かりそうなモノがあったらフォローしてあげるとか、
そのような配慮をどうしたらすることが出来るようになるのだろうか?
慣れてないから?…いいえ、むしろアテンドに成れていない中で、
車イスの人に対しても思いやりを持つほど馴れていない中で、
結局、他人をモノとしか見れていないんだろうなと思っています。
それどころか相手が無抵抗なのを良い事に
機関銃を向けたり集団リンチをしたりする人さえもいる状況で良いものなのだろうか?
そのような事を考えています。
............................................................................................................
さて、以前シェアした ハピスポひろば が昨日開催されました。
それはゆるキャラも!と思う中で、ゆるキャラ自身も障害者だと私は考える中で、
まずはキャラクターがイキイキと生きられるイベントでありたいと思っていました。
それと同時に、ゆるキャラ自体が怖いと言う子、人見知りだったり恥ずかしがり屋な子、
ウチの子は障害者だからゆるキャラに何するか分からないって親に引き離されてた子・・・
そんな子にもふれあいを楽しんで欲しい!…そんな思いで今までお手伝いに参加していました。
でも今回は、某団体さんのキャラクター達がぞろぞろといらしていた中で
キャラクターの顔などに手形も付きっぱなし、足も引きずりっぱなしで登場していたし、
順番で握手しようねという促しも、小さい子が足元に居るから屈もうねも出来ていないし、
更にはキャラクター(イキモノ)で居ることを諦め、モノとしてアテンドに連れ回されてるキャラもいたし。
それはまるで今までのこちらの想いを無惨に切り裂かれたと言うか、
築いた場所に土足で踏み込まれたと言うか・・・何かそんな気分です。
人は他人と生きてこそヒトって何なんですかね(´・ω・)
アテンドが居てこそ、キャラクターはヒトとして生きられる(活きられる)。
そのような中で、見えてない・出来ないモノと決め付けるアテンドにも
役を演じる事を諦め・着ぐるみ衣装に着せられてるだけの演者にも問題があって、
それじゃ、ヒトではなくただのモノだよね!って所になる訳で、
そう言うのを改善していきましょう!って訴えるのは他者批判とさえなってしまう中で、
ヒトと共に生きるって何?助け合いや共存って何?って所まで来ています。
ならば最初からモノとしてキャラクターを設置しといた方がよっぽど
多くの人の目に触れていただけると思ったりもしますが、それだとなんだかなぁ…って。
ですのでもう少し、その答えを見つけるまで休止は続けます。
むしろその答えを一緒に見つけて下さる人を求めております。

まぁ、そうでなくても、今回のイベントでは
私に関わらないでと言っていた人が会場の中央付近でダンスを踊り、
私に気にかける事がストーカーだと罵っていた人が会場内を闊歩していた中で
ヒトと共に生きるって何?って事に対し、苦悩の一途を辿っています。。
それこそ究極論、皆で手を繋ぎ共に生きていきましょう!
…そう唱える事が、我々は個別でやっているんだ!やり方を批判するな!
そんな風に言われてしまう時代が目の前に来ているように感じています。
私はゆるキャラのアテンドとは、車イスの人のエスコートのそれと同じだと思っています。
ある程度の補助さえしてさしあげれば、車イスの人にも意思はあって、残りは自らですることが出来る。
・・・そう思っています。
でも現実は、車椅子の人は何も出来ないモノだと思って扱う人も多いと感じる。
逆に車椅子の人も、私は障害者だからという言葉を武器に自らの意思で生きるのを諦め、
身の回りのこと全てを周りにやってもらおうとする人もいるようにも感じる。
これって正しく、ゆるキャラでも言えることであって、
何も出来ないものだろうと決め付けて扱うアテンドにも
キャラクターでいることを諦め、身の回り全てをアテンドにやってもらおうとする演者と同じだと思う。
そのような中で、アテンドの在るべき姿としてどのような行動が好まれるのだろうか。
例えば開き扉1つ例に取っても
車イスの人を後ろから押して、扉に突っ込み開けようとする人がどこにいるだろう?
頑張って扉を通ろうとする車椅子の人をただ見ているだけでフォローもせず
通れた!通れた!とただ喜び、感心するだけの人で良いのだろうか?
・・・先導して、扉を開けてあげるとか、引っ掛かりそうなモノがあったらフォローしてあげるとか、
そのような配慮をどうしたらすることが出来るようになるのだろうか?
慣れてないから?…いいえ、むしろアテンドに成れていない中で、
車イスの人に対しても思いやりを持つほど馴れていない中で、
結局、他人をモノとしか見れていないんだろうなと思っています。
それどころか相手が無抵抗なのを良い事に
機関銃を向けたり集団リンチをしたりする人さえもいる状況で良いものなのだろうか?
そのような事を考えています。
............................................................................................................
さて、以前シェアした ハピスポひろば が昨日開催されました。
障がいの有無、年齢関係無くお互いを認め合い、励まし合い、力を寄せ合い
誰もがみんなが社会の一員だと感じられる世の中になる事を願って開催します。
それはゆるキャラも!と思う中で、ゆるキャラ自身も障害者だと私は考える中で、
まずはキャラクターがイキイキと生きられるイベントでありたいと思っていました。
それと同時に、ゆるキャラ自体が怖いと言う子、人見知りだったり恥ずかしがり屋な子、
ウチの子は障害者だからゆるキャラに何するか分からないって親に引き離されてた子・・・
そんな子にもふれあいを楽しんで欲しい!…そんな思いで今までお手伝いに参加していました。
でも今回は、某団体さんのキャラクター達がぞろぞろといらしていた中で
キャラクターの顔などに手形も付きっぱなし、足も引きずりっぱなしで登場していたし、
順番で握手しようねという促しも、小さい子が足元に居るから屈もうねも出来ていないし、
更にはキャラクター(イキモノ)で居ることを諦め、モノとしてアテンドに連れ回されてるキャラもいたし。
それはまるで今までのこちらの想いを無惨に切り裂かれたと言うか、
築いた場所に土足で踏み込まれたと言うか・・・何かそんな気分です。
人は他人と生きてこそヒトって何なんですかね(´・ω・)
アテンドが居てこそ、キャラクターはヒトとして生きられる(活きられる)。
そのような中で、見えてない・出来ないモノと決め付けるアテンドにも
役を演じる事を諦め・着ぐるみ衣装に着せられてるだけの演者にも問題があって、
それじゃ、ヒトではなくただのモノだよね!って所になる訳で、
そう言うのを改善していきましょう!って訴えるのは他者批判とさえなってしまう中で、
ヒトと共に生きるって何?助け合いや共存って何?って所まで来ています。
ならば最初からモノとしてキャラクターを設置しといた方がよっぽど
多くの人の目に触れていただけると思ったりもしますが、それだとなんだかなぁ…って。
ですのでもう少し、その答えを見つけるまで休止は続けます。
むしろその答えを一緒に見つけて下さる人を求めております。

まぁ、そうでなくても、今回のイベントでは
私に関わらないでと言っていた人が会場の中央付近でダンスを踊り、
私に気にかける事がストーカーだと罵っていた人が会場内を闊歩していた中で
ヒトと共に生きるって何?って事に対し、苦悩の一途を辿っています。。
それこそ究極論、皆で手を繋ぎ共に生きていきましょう!
…そう唱える事が、我々は個別でやっているんだ!やり方を批判するな!
そんな風に言われてしまう時代が目の前に来ているように感じています。
タグ :ゆるキャラ